蔦を象った繊細な刺繍。小さな鳥がそこかしこに飛び、その尾羽の一枚一枚までも、糸一本で丁寧に表現されている。
キャンパス代わりの布地は、紺色のとろけるような天鵝絨だった。惜しむことなくたっぷりと伸ばされた裾には、上品なフラウンスがあしらわれている。女らしかろうがそうでなかろうが、女の性質をほんの少しでも持つ者ならば、誰もが虜になるに違いない一品だった。少なくとも私のような庶民には、一生かかっても手の届かない超高級品である。
それなのに、目の前の女はしょぼたれて、不景気そうに眉を寄せている。
―― これだけのものを着ることが許されているのに、どうしてそんな顔をしているの。
心の中で話しかける。口には出さずとも、彼女には伝わるのだ。
黙って首を振っていた女だったが、いい加減面倒になってきたのか、とうとう重い口を開いた。
「いや、だって意味分からないでしょ。これ」
鏡の中の女の不景気そうな顔―― つまり長年見慣れてきた私の顔は、そう言って口をへの字に下げた。
58 霧の館(Ⅱ)
「余計なことを喋るな。黙って準備をしろ」
部屋の外から男の声が飛んだ。私を着替えさせていたメイドたちが、無言で手の動きを早める。
はあ、と廊下に聞こえないように、小さくため息をついた。
どうしてこんなことに。
部屋に並べられた猫脚の調度品は、相当古びてはいるものの細かな細工が施され、いかにも上等な感じである。アンティークショップで見るような壁紙、カーテン、絨毯。時は十九世紀、英国ヴィクトリア調。
同じくヴィクトリアンな格好をしたメイドに囲まれて、いよいよ途方に暮れていた。
男によって連れて来られたのは、森の奥深く、深い霧中に隠れ立つ古く大きな洋館だった。外にも内にも人の気配は希薄だったが、かといって屋敷の構えを見るかぎり逃亡の見込みも薄く思われた。
着いた途端、何の説明もなくメイドたちと一緒に部屋に押し込められたかと思うと、服を脱がされ、清められ、あっという間にこの状態である。
縛られて地下牢に放り込まれるか、それともその場で刃物を突きつけられて―― と恐ろしい予想が的中しなかったのにはほっとしているが、正直困惑せざるを得ない。
縄の代わりにコルセットでぎゅうぎゅうやられ、私は閉口した。
黙々と白粉を塗りたくっていたメイドの一人が、息苦しさにひきつった頬を手のひらで押し伸ばした。日に焼けた肌を何が何でも綺麗にしたいらしい。毛穴を埋めようと顔を近づけた彼女に、声を潜めて話しかけた。
「すみません、ここは誰のお屋敷なんですか?」
メイドの青い瞳がちらりとこちらを向いた。が、それは一瞬のことで、彼女はすぐに元の作業に戻ってしまった。
さっきから何を訊いてもこの調子である。メイドたちも人攫いの仲間なのか、それともただ命令に従っているだけなのか、どちらにせよ彼女たちから情報を得るのは難しそうだった。
ため息をつくと幸せが逃げる、というが、逃げ出したいのはむしろ私だ。全身を磨き上げられながら、もう一度ため息をついた。
数十分後、鏡の向こうにはそれなり見られるようになった私が鎮座していた。髪も爪も年相応に整えられて、恩師の壮行会くらいならこのまま出かけていけそうである。
こちらに来てからは、化粧とは無縁の生活を送っている。こんな状況でなければ諸手を挙げて喜べたのに。
その時、廊下を歩いてくる重い足音がした。
「終わったか」
見張りの黒服とは違う、聞いたことのない声が聞こえた。それを耳にした途端、メイドたちは姿勢を正し、粛々と道をあけた。
廊下から現れたのは、長身の男だった。
年の頃は二十代後半から三十代、髪はくすんだ黄土色。シルクのシャツに、仕立ての良いベストを着込んだ貴族風の男は、品定めするように私を見下ろしていた。こちらを睥睨する目つきといったら、二十も三十も歳を経た壮年ような鋭さで、見張りの黒服共とはまるで比べ物にならない。
「今日はお前か」
上から下まで一通り視線をやった後、男はメイドに命じて私の頭にヴェールを被せさせた。視界は悪くなったが、見ようと思えば透けて見える。目隠しではないらしい。
ついてこい、と有無を言わせぬ口調で部屋から連れ出された。貴族男が顎で合図をすると、廊下に待機していた二人の黒服もそのまま私の両横についた。まるで連行される囚人のような、厳重な監視体制だ。
一本道の長い廊下に、ドレスとヒール。走って逃げるのは不可能だった。
どこへ向かうつもりなのか、屋敷の中を粛々と歩いていく一行。話しかけようかどうしようか迷っていると、意外にも先頭を行く貴族男が先に口火を切った。
「これから言うことを一言一句漏らさずに覚えろ。余計なことは言うな」
前を向いたまま、振り向きもせずに言う。思ってもみなかった内容に、内心の困惑が口をついて出た。
「どういうことですか?」
「もし着いてから同じことを口にしたら、どうなるかわかっているな」
男がちらりと後ろを見た。紳士的とさえ言える身なりや振る舞いとはかけ離れた、荒々しく恐ろしい表情だった。
海軍に追われ、チンピラに追われ、いかつい男性二人組に追われ、荒事にはそれなりに慣れてきたつもりの私だったが、思わず足が竦んでしまった。
それ以上、何も言えずに黙って首を縦に振った。
広い屋敷の中を歩き続け、とあるドアの前で立ち止まった。大きく重厚な両開きの扉である。黒服たちは示し合わせたように私の横を離れ、扉の両横に控えた。
「失礼致します」
コッコッ、とドアノッカーを鳴らした後、男は厳かな口調で扉の向こうに声をかけた。
少し待って、彼は静かに扉を押し開けた。返事は聞こえなかった。少なくとも私の聴力では。
見るからに重い扉が、軋んだ音を立てて難なく開いていく。おそるおそる足を踏み入れたそこは、大きな寝室だった。
私が着替えた部屋に比べると、新しさや華やかさに欠ける代わり、非常に荘厳で落ち着きのある内装だった。だが同時に、永く流れた時の匂い―― 古錆びて、風化しかかった事物の気配が濃厚に漂っていた。
元は良い品であったのだろうボルドーの長絨毯は、すっかり踏みなめされ、毛足も短くぺたりと床に張り付いている。部屋に並んだ骨董品には分厚い埃が積み重なっていた。
寝室の中心は天蓋付きのベッドだった。居並ぶ骨董品に取り囲まれたそれは、古い家臣に傅かれる年老いた王のような佇まいで、厳かに侵入者を品定めしている。部屋全体に拒まれているような、居心地の悪い圧迫感を感じた。
しかし男には遠慮も容赦もなかった。長絨毯を踏みつけ、ずいとベッドに近づいていく。私もまた慌てて静かにベッドに寄った。
天蓋からちらりと見えたものに、息を呑んだ。
ベッドの中に横たわっていたのは、盲いた老人だった。
身体は痩せ細り、頭はだらりと力なく投げ出されている。半ば死んだような老人の身体のうち、わずかに生の証拠を示すのは白濁した目だけであり、それは時折痙攣のような震えを見せていた。
それとは全く反対の、刺さるような視線に促され、私はヴェールを外した。空気の動きを感じ取ったのか、それとも単なる偶然か、老人の瞳がわずかに震えた。
その様を見ながら、囁くようにこう話しかけた。
「私を覚えていらっしゃいますか、お父様」
「ここで待っていろ」
黒服に再び連行された私は、着替えた部屋とは別の部屋に放り込まれた。捕虜が大人しくイスに腰掛けたのを見届けると、黒服たちは居丈高な靴音を立ててどこかへ去っていった。
なんなんだろう、いったい。
彼らが何をしたいのか、私に何をさせようとしているのか、てんで見当がつかなかった。
長らく使われていなさそうなその部屋は、元は応接だったのか、ソファやら棚やらが雑多に壁際に積み上げられていた。すぐそばの壁際には人でも入れそうな大きなチェストがひとつ。夜ではないが、部屋の中は暗かった。
埃の匂いに満ちた部屋をしばらく眺めた後、私はドレスの裾を持ち上げてドアの方へ行った。
周囲に人の気配のないのを確認して、ドアノブに手を伸ばした。ガチャガチャと鍵のかかった音がするだけで、扉は手前にも向こうにも動かない。
ドアを離れ、今度は窓のそばに行った。指先でカーテンに隙間をつくると、古臭い匂いが冷えた空気とともに鼻腔に流れ込んできた。
ガラス窓を隔てて、霧まじりの白っぽい景色が揺らめいていた。霞んだヴェールの向こうには深さの知れない黒い森が広がっている。冷気のせいか、何のせいか、うっそりと肌寒く感じた。
マリオとルフィはどこにいるんだろう。「助けを待つ」「助けに来る」といった言葉は、私と彼らの間柄には似合わない。しかし彼らがこのまま私を放ってどこかに行ってしまうという想像もまた、いまひとつピンとこないのだった。
もう一度イスに腰を下ろした。豪勢なドレスが少し重い。まるで霧でも吸い込んでしまったみたいに。何か悪いことをしたわけでもないのに、もやもやとした後ろめたさが心の中にわだかまっている。
『私を覚えていらっしゃいますか、お父様』
さきほどの“大旦那様”―― “お父様”の顔がまぶたの裏から離れない。盲いた目がこちらを見た、ような気がした。だが結局、呻きとも吐息ともつかぬ何かがカサブタのような唇から漏れただけだった。
もう一度言え、と男は囁いた。
『お父様、お父様、私を覚えていらっしゃいますか』
白霧に覆われた眼球は、天井を見上げたままだった。決められた台詞を決められた通りに繰り返す。だが老人の瞳は脈動のようにぴくりぴくりと震えるだけで、それ以上何の反応も示さなかった。
男が、やはり駄目か、と呟いた。元々無口だった男は、さらに深く沈黙し、それから一言も話さなかった。
部屋から出ていこうとした時、ふと壁の一点に目が止まった。埃シミのついた壁紙の上には、一枚の絵がかけられている。それはいつか雑貨屋で見た、あのタペストリーと同じものだった。
醜く、恐ろしい“病の獣”。
その時、糸のようなかぼそい声が耳をついた。はっとして振り返る。力なく開きっぱなしになった老人の唇から、蚊の鳴くような音が漏れている。
それは旋律だった。
―― 夜の底、海の宮から呼ばう者。新月の子は暖炉に隠せ。
「……今回もまた……」
「さすがに……今度こそ……」
とぎれとぎれに聞こえる声に、はたと我に返った。誰かが話をしている。どこからか聞こえてくる会話に耳を澄ませながら、もう一度窓際へ近づいていった。
カーテンの陰に身を隠し下を見ると、黒服たちの姿が見えた。あの貴族男もいる。
「まったく外の奴らは何をしている。役立たずをよこすばかりで」
「前といい、今回といい、無駄な時間を」
口々に苛立ちをぶつける黒服たち。一方、貴族男は冷静だった。
「仕方あるまい。元から可能性は低かった」
宥めるように貴族男が言った。ゆったりと壁にもたれ、焦った様子は見られない。何の話だろうと、聞き耳を立てる。「では、あの女は?」とたずねた黒服に、貴族男が答えた。
「ああ、もう必要ない」
びくりと心臓が跳ねた。おもねるような黒服たちの視線を受け、男の唇がつり上がった。
「後始末はいつも通り。“新月の子”は“病の獣”に」
よろめいた拍子にカッ、とヒールが鳴った。壁に手をついて姿勢を保ったが、どきどきと速まった拍動は治まらない。
まずい、とドアのところへ走った。勢いに任せてもう一度ガチャガチャとやってみたが、開く気配はない。
後始末。時代劇やスパイ映画ではお馴染みのそれが、やけにリアルな響きを持って焦燥を煽ってくる。『この度はご協力ありがとうございました。粗品をどうぞ』ではないだろう、間違いなく。
カツカツと鳴らしたくもない音を鳴らしながら、部屋中を歩き回った。何かいい案はないだろうか。カツカツ、カツカツ。
するとコツコツ、と私のヒール音とは異なる、複数の足音が廊下から響いてきた。
軽い―― 女の足音だ。
「本当にどうしてこんなことに」
「大旦那様に続いて、お嬢様まで」
「それもこれも全部あの男がやってきてからだわ」
歩いてきたのは、メイドたちのようだった。姿は見えないが、立てる足音は、先ほど服を着替えさせられていた時に聞いたものと全く同じだった。
「あの憎たらしい、ダンヴェガン」
小さく潜めた、だがぎりりと歯ぎしりさえ聞こえてきそうな憎憎しげな声が壁越しに聞こえた。
事は思ったより複雑なのかもしれない、と指先で顎に触れた。それならば、一か八かで試してみよう。
唯一の灯りだったランプを躊躇いなく吹き消し、まだ煙のたなびいているそれを見えないところに隠した。暗くなった部屋の中、真ん中にあったテーブルとイスを急いで端に寄せる。剥いだテーブルクロスは、こよりのように細くねじった後、イスの足に巻きつけた。
片方の端がしっかりと結びついたのを確認して、私はもう片方の端を強く握りしめた。
ゴトゴトン、と小さくはない音がした。
「今、何か聞こえなかった?」
メイドの一人が怪訝そうな感じで言う。
「音がしたわ。どこの部屋かしら」
通り過ぎたメイドたちの足音が戻ってきた。ガチャガチャとあちこちでドアを開け閉めする音が聞こえる。
「ベイリー、主鍵を貸してちょうだい。きっと応接よ」
鍵穴に鍵を差し込む音がして、静かに扉が開いた。
「暗いわ。見える?」
「ああ、あれね。古家具の山が崩れたのよ」
コツコツという音が部屋の中を歩き回っている。
「でもどうして急に崩れたりしたのかしら」
「あの男たちが無理矢理積んだりしたからよ。土足で入り込んだ挙句、大旦那様が大切にされていたものを滅茶苦茶にして。後で自分たちで片付けさせましょう。こんなに重たい物、私たちでは元に戻せないわ」
メイドたちの会話はそこで終わった。全員分の靴音が去ったのを確認して、私はそろそろとチェストから這い出た。固く握りしめていたテーブルクロスの端を手放し、安堵の息をついた。咄嗟の策だったが、上手くごまかせたようだ。
仕組みは至って簡単だ。
チェストに身を隠し、思い切りテーブルクロスを引っ張っただけ。テーブルクロスで作った縄はイスを引き寄せ、引き寄せられたイスは積み上げられていた古家具の山を揺らし、そのうちのいくつかを絨毯の上に落としたのである。
「これが本当のテーブルクロス引き」
とくだらないことを言いつつ、ドアノブに手をかけた。鍵はもちろん開いている。
こちらの意図した通りに動いてくれた―― そして髪の毛をどんなに激しく動いても崩れないくらいにガチガチに固めてくれたメイドたちに感謝しつつ、私は颯爽とヒールを脱ぎ捨てた。