59 霧の館(Ⅲ)
森の奥の大きな洋館。ドレスの裾をからげ、裸足で赤絨毯の上を駆けていく。
映画のクライマックスシーンのようなそれを体験したことがある日本人は、それこそ映画女優か、明治大正のハイカラ箱入り娘くらいのものだろう。
どちらにも縁遠いモブ系日本人、だがしかし今となっては世界で一人だけの日本人である私イチルは息切れ寸前の状態で、音もなく廊下を疾走していた。ひらひらと舞うドレスの華やかさに反して、顔はおそらく般若である。
「出口、どこ……!」
階段が見つからないのだ。逃げ場のない長い廊下を行ったり来たり、まだ人と出くわしていないこと自体が奇跡のようなものだったが、迷っている当人としてはもはやそんなことに感謝している余裕もなかった。
駆けていた足に、キキッ、とブレーキをかけた。靴が立てる音はすべて分厚い絨毯が吸収してくれる。だが、それでも消せないのが床の軋む音である。
つきあたりの角にメイドの気配を感じた私は、その場で右往左往した後、近くにあったドアに滑り込んだ。ドレスの裾が挟まらないように、また音をたてないように、そっと扉を閉める。
キッ、キッ、と近づいてきていた足音は、何事もなく部屋の前を通り過ぎていった。
「セーフ」
柱の裏からそろりと顔を出した。カーテンの締め切られたその部屋は、さきほどの応接室と同じく薄暗い。
「書庫?」
暗さに慣れた目が、室内に見たのは壁一面の本棚だった。
誂えたように端から端まで本が詰め込まれているが、段によってはところどころ歯抜けになっている。雲海のように分厚く降り積もっていた埃の層も、その周りにだけは荒れたように痕がついていた。
この部屋については、今でも人が出入りしているようである。
古い紙の匂いにつられて、日誌、と言葉が口をついて出た。
そうだ、『日誌』だ。そもそもアレを探すためにこんなところまで来たんじゃないか。
骨董品のような『日誌』と、人の出入りする古臭い書庫。相性はぴったりだ。
もう長らく触れられていないだろう場所は省き、本棚や机の上を探していった。高級ドレスの裾が埃まみれの湿った床を這うのを見るにつけ、もったいない精神が頭をもたげてくるのだが、もはやそれどころではない。余計な思いを振り払い、『日誌』探しに専念した。
机に積み上げられた本の一冊を手に取った時だった。
「あれ、この本って」
『日誌』ではない。だが、大変見覚えのあるものだった。
黒いハードカバーに記されたタイトルは『古き海の冒険』。バギーのところでも、シャンクスのところでも不思議と縁のあったそれが、再び目の前に現れたのである。
「いや、別に不思議でもないか」
冒険小説の金字塔だそうだから、どこの家にも一冊くらいはあるのかもしれない。そう思って本を置こうとして、ふと視界に入った文字にしばし動きを止めた。
ベックマンの持っていたものは擦り切れて、タイトルも何も消えてしまっていた。一方こちらは長い間、光に晒されずひたすら書庫で保管されてきたせいか、表紙がそのままの状態で残っている。
タイトルの下、金字で書かれた“それ”はたった一行である。だが私の混乱を誘うにはそれで十分だった。
「どういうこと?」
「それはこちらの台詞だが」
声と同時に、大きな音を立ててドアが開いた。黄土色の髪が見えたか見えないか、私は本棚の奥に身を隠した。ガチャリ、と鍵のかけられた音がして、書庫は完全な密室になってしまった。
「隠れても無駄だ」
と天空の城を目指す大佐のような一言を吐き捨て、男が近づいてくる。本棚の奥に逃げ込みながら、苦肉の時間稼ぎをした。
「良くないことを企んでるんでしょう、ダンヴェガン」
ダンヴェガン、と名を呼んだ途端、絨毯を踏む音が止まった。
「その名前、どこで知った」
一際険しい声だった。その間にも後ろ手で奥の壁を探る。急げ、きっとあるはずだ。
「悪い噂は勝手に流れてくるものだから。でも、あんまり他人を巻き込むと―― 」
ガチャリ、と指先が探しものを探し当てた。ひやりと冷たいドアノブを握り、思い切り体重をかけた。
「狭いところに閉じ込められちゃうかもしれませんよ!」
本棚の奥にあった、もうひとつの扉から隣の部屋へと飛び出した。追ってくる足音よりも早く、外から鍵をかける。扉の向こうで舌打ちの音が聞こえた。
「知っていたのか……!」
「ついさっきね」
並び立つ本棚のうち、とある二つの間だけ妙に絨毯が汚れていたのだ。森の中の獣道のように、まっすぐに奥の壁に向かって。そこに出入り口があるかもしれないということは、少し考えれば誰だって容易に想像がつく。
閉じ込めた野獣がもうひとつのドアから躍り出して来る前に、私はその場を駆け出した。
ありがたいことにどの部屋にも、廊下に面したドア以外に、隣部屋と繋がるドアがあった。
ダンヴェガンは廊下を、私は部屋の中を、それぞれ並行に走る。ドアを開けなければならない分、こちらの不利は間違いないが、各部屋の中には隠れられる場所がいくらでもある。獲物がどの部屋に潜み、どのドアから飛び出してくるかわからないこの鬼ごっこは、ダンヴェガンからすればさしずめ忌々しいモグラ叩きだろう。
バタン、バタンとダンヴェガンがハズレのドアを開け閉めする音が聞きながら、前に進んだり、後ろに戻ったり、家具に隠れたり。
心臓が縮み上がらせながら、派手な逃走劇を繰り広げた結果、とうとう隣へのドアのない部屋―― つまり端の部屋までやってきた。
こうなったら、女も度胸。
階段、来い!と念じながら、廊下側のドアを開けた。視界に飛び込んできたのは黄土色の髪―― ではなく、下に続く階段だった。
半ば転げ落ちるようにして、長い螺旋階段を駆け下りていく。
高さにして三、四階分、ようやく二階ほどまで降りてきたころ、ダンヴェガンの顔がはるか上から覗いた。
「女ァ……!」
「ヒェッ」
お仁王様も裸足の恐面である。こんな怖い人とはさっさとオサラバするのだと、息せききって一階へ降りようとした。その時である。
見ている前でダンヴェガンが躊躇いなく四階の手すりを乗り越えた。ひらり、という擬音がこれほど似合う動きもない―― そんなことを考える私の目の前を、風の塊が通り過ぎた。
そして次の瞬間、今まさに降りていこうとしていた一階に、怒り狂うお仁王様が現れたのだった。
「へ?」
「もういい、殺す」
「ちょっ、反則、反則!」
ファンキーすぎる運動能力を目の当たりにして、私は白目を剥いた。これが貴族の本気。恐ろしい。
身体を反らし、伸びてきた男の手を辛くも逃れた。が、それは足場の悪さが一旦こちらに味方しただけである。
このままでは捕まる―― 本人の申告を採用すると“Kill ”だそうだが―― のは時間の問題だった。
先の自由より、目先の生命。
袋小路に入る可能性を理解しながらも、私は二階の廊下を走り始めた。
階段のある場所から、今度は屋敷の奥へ逆走する。
あともうちょっとで一階だったのに。
肩を覆っていたショールを引きちぎるように、後ろに投げやった。相手の顔にでもへばりついてくれれば良いのだが。『三枚のお札』の小僧と同様、振り返る勇気はすでにない。
コの字型の廊下のつきあたりに、大きなステンドグラスが見えた。
美しい花園を描いたそれを見た途端、じわじわと目の縁に涙が溢れてきた。
花畑の青い空の向こうに、青い何かがひらりひらりと舞っていたから。
色付きのガラスよりも、花畑よりも、もっともっと美しい青い鳥に向かって、大声で叫んだ。
「鳥になりたい! です!」
ガラスの向こうからじっと私を見ていた鳥は、その時確かに目を丸くした。鳥のくせに人間みたいだな、と泣きながらちょっと笑ってしまう。
裸足の両足が躊躇いなく絨毯を蹴った。ふわりとたなびいたドレスの裾をダンヴェガンが慌てて掴んだが、とうの昔に擦り切れ果てていたそれは、音もなく真っ二つに裂けた。
千切れた裾を握りしめたまま、呆気に取られるダンヴェガン。その呆けた顔を見下ろしながら、いよいよ身軽になった私は、壁一面を覆う大きなガラスの花畑に向かって飛び出した。
ウインドベルのような音とともに、無数のガラス片が宙に舞った。
高らかに鳴る天上の鐘、虹色の輝きが青空に光を散りばめる。目の縁から撥ねた涙さえ、キラキラと煌めいて見えた。
その瞬間、私は時と時の狭間にいた。
再び時が流れ出すまでの間、恐れも不安も忘れて、ただその美しい世界に身を委ねた。
空中散歩の魔法が消え、重力が再びこの身を捉えた時には、私はすでに逞しい腕の中にいた。
「ったく、ここまで馬鹿だとは思わなかったよい」
少しだけ瞼を上げると、青い光に目が眩んだ。
深海の青、空の青、宝石の青。あらゆる青色が混ざり合い、現れては消え、消えては現れる。音もなく燃え上がる青い炎が私の身体を包み込んでいた。不思議とちっとも熱くない。
「マリオさん、あの」
「悪ィが話は後だ。こうなった以上やるこたァ、ひとつでェ。エース、片付けちまえ!」
「はいよォ!」
地上でルフィが手をボキボキと鳴らした。粉々になったステンドグラスの破片を踏みつけて、ダンヴェガンが地上に降り立った。
「うげ。あの人、おぼっちゃんのくせに本当にタフだなあ」
「黙ってろい、舌噛むぞ」
身体を支えていた腕が消え、代わりに炎の翼が現れる。空中でくるりと一回転したかと思うと、私はいつしか大きな鳥の背中に乗っていた。
今まで見たどの鳥よりも大きなその翼が力強く宙を叩き、二人から大きく距離を取った。
慌ててその首にしがみつく。
「マリオさん。あの人、ああ見えて足も速いし力も強いんです! ルフィさん一人で大丈夫なんですか!?」
「―― らしいぞ、ルフィ。良かったな」
聞こえるはずのない会話に、ルフィが振り向いて大声で叫び返してきた。
「そりゃァ良いこと尽くめじゃねェか! こんなクソ田舎までわざわざ出向いてやったんだ。ちょっとは楽しませてもらわねェとな。まァ、せいぜい手加減してやるよ」
そう言って彼は片手を掲げた。そして、その手のひらから真っ赤な炎が燃え上がるのを、私は確かに見たのである。
一方、ダンヴェガンは今や炎そのものと化したルフィを呆然と見つめていた。まとめられた黄土色の髪はほつれ、シルクのシャツは熱で縮れてしまっている。
口をパクパクさせるダンヴェガンめがけて、ルフィの炎熱がうねった。襲い来る獣の顎のようなそれを目の前に、だがしかしダンヴェガンは間一髪で飛び退った。
「なんだ、結構やるじゃねェかよ。弱火じゃなくて中火の方がいいかァ」
攻撃を避けた相手に、ルフィはかえって上機嫌になった。さっきよりも更に大きい炎の塊を作り始める。
屋敷ごと吹っ飛ばしてしまいそうなルフィに、顔が引きつった。あの人、本当に大丈夫かな、とさっきとは違う意味でひやひやしながら様子を見守る。
一方、マリオはダンヴェガンの顔を穴が空くほど見つめていた。
「どうしました、マリオさん?」
「いや、ちょっと待て。まさか―― 」
マリオが「エース!」と制止の声を上げたのと、ダンヴェガンが膝をつき、叫んだのは同時だった。
「お二人とも!待ってください!」
ダンヴェガンが土下座の姿勢で地にひれ伏した。肩透かしを食ったルフィは勢いあまって、少々締まらない格好でひっくり返った。
「なんだァ?」
男は私たちの目の前で、整えていた髪をぐちゃぐちゃに下ろし、頬を強く擦った。肌色の何かが剥がれたかと思うと、その下から大きな古傷が現れた。
それを見て息を呑んだ二人を前に、男はこう叫んだのである。
「ダンヴェガンなんかじゃありません、俺です!オルランドです!」