湯気の立つカップが目の前に差し出された。耳障りな食器の音はおろか、衣擦れの音さえしないパーフェクトな給仕。輝く紅色の水面から漂ってくるのは、嗅ぎ慣れない、だがとても上品な紅茶の香りである。
 喉が乾いていたせいもあり、思わず手が伸びた。が、その前に咳払いをして、おずおずと申し出た。

「あの、お茶にしませんか?」

 陰気な視線がじろりと集まる。私は引きつり笑いで頭を掻いた。

「ですよね」



chapter6 FEAR IS LIKE FIRE

60 訥弁の語り部(Ⅰ)


 空気が重い。感動の再会のはずが、まるで愁傷の告別式である。

 私たち三人に加え、オルランド、メイドたち。例の塔の根元に隠れるようにして立つ小屋―― というよりは小さな屋敷といった方が適切かもしれない―― に集まった私たちは、会話らしい会話もなくひたすら沈黙を続けていた。

 マリオとルフィ、改めマルコとエースは、探し人オルランドに向かい合ったまま、再会を祝そうともしない。オルランドも同様である。

 壁際にはメイドが数人控えているが、私を着替えさせた本館のメイドたちとは違い、全員がヴェールと見紛うような長いヘッドドレスをつけていた。和やかな雰囲気を提供してくれるどころか、表情さえ伺えない状態である。
 オルランドによると、彼女たちはこの屋敷住み込みの専属メイドであるということだった。わざわざ本館であるドナン・ドゥイック邸から離れ、霧深き塔の隣で働く理由は、今はこの場にいないとある一人の女性のため。
 そう、その人物こそ、先日私を助けてくれたあの美しい声のひと―― つまりドナン・ドゥイック家の一人娘であり、現在幽閉の憂き目に遭っている悲劇の人であり、おそらくは全ての鍵となる人物―― ドナン・ドゥイック=アイリーンなのだった。

 紅茶の湯気が消えた頃、オルランドがようやく口を開いた。

「すまねェ」

 私がダンヴェガンだと思い込んでいた男オルランドは、屋敷での辛辣で居丈高な態度とはまるで正反対の、朴訥とした口調でそう言い、深く頭を下げた。言葉で押さえつけることを好まない寡黙な硬骨漢。なんとなく、これが彼の本当の姿なのだろうと思った。

 一方、頭を下げられた二人は、大して年の変わらない(エースに至っては年上の)相手に、小指の爪ほどの気後れもないようだった。
 黄土色の後頭部を睨むようにして、マルコが吐き捨てた。

「どうして連絡を寄越さなかった」
「マルコ隊長じきじきとは思いもしやせんで。ご迷惑を――
「質問に答えろ」

 マルコがひやりと言い放った。彼は明らかに苛ついていた。

「ペラペラと余計な口ばかり達者になりやがって。そういう奴じゃァなかったはずだろうよ、お前は」

 言われたオルランドは恥じたように瞳を伏せ、握り拳を更に強く握り込んだ。皮膚と皮膚が擦れ合う、ぎりりと苦しい音がした。

「でも、俺はまだ帰るわけにはいかねェんです」
「そんな手前勝手、オヤジが許すと思うか」
「処罰なら後からいくらでも……!だが今だけは、例えオヤジの言うことでも譲れねェ。これは俺ひとりで解決しなきゃならねェ問題なんだ」

 マルコの纏う空気がひと時に冷え込んだ。

「オルランド、テメエ本気で言ってんのか」

 オルランドは頷いた。奥歯を噛み、毅然と顔を上げていたが、そんなものは何の盾にもならなかった。

「この馬鹿野郎が!」

 突如声を荒げたマルコに、オルランドの背がわずかに震えた。屋敷ではあれほど大きく恐ろしく思えた姿が、今では子供のように縮こまって見える。それほどにマルコの怒りは凄まじかった。

「自分のケツも自分で拭けねェ糞ガキが、ナマ言ってんじゃねェ!何もかも放り出した挙句、こいつは自分テメエの責任だと?舐めた口を利くのもいい加減しねェか!」

 怒鳴る度、テーブルがミシミシと軋んだ。初めて見るマルコの激高に、こちらまで身が竦む。

おかに登って遊んでるうちに、脳みそまで甘ったれちまったようだなァ。俺ァ、テメエに何と教えたよ!」

 畳み掛けるように言った後、言葉を切り、深く息を吐いた。

―― と、オヤジならそう言うだろうな」

 先ほどの憤怒が嘘のように、マルコの瞳は静けさを取り戻していた。オルランドは呆然と目を見開いている。

「世の中からあぶれて、行くところも帰るところもねェ。そんなどうにもならない奴らがひとりきりで何を成せるってんだ。テメエだけじゃねェ。俺もエースも、皆そうだよい。でもな、そんなどうにもならない俺たちを、呼んで集めてくれる人がひとりだけいる。その傘の下で、俺たちが願うことはひとつだろう」

 なァ、オルランド、と独り言のように言う。

「できねェことをするための、だ」

 “それ”が何なのか、誰も訊き返そうとしなかった。合意も確認も必要ないほど、自明のことだったのだろう。彼らにとっては。

 黙り込んだマルコに代わって、エースが苦笑した。彼は自分の役割を良く理解していた。

「オルランドよォ。昼間久しぶりに会って、えれェ驚いたんだぜ。砲弾に目鼻をつけたみてェだったアンタが、よりにもよってお上品な貴族の坊っちゃんに大変身だ。ボサボサ頭を綺麗にして、言葉遣いも改めて……ここまで変わるもんなんだな。街へ行きゃァ、女がウヨウヨ寄ってくるぜ。いつもと違って」

 俺も髪型変えようかな、と黒髪をつまんで茶目っ気たっぷりに言った後、エースは眉を下げた。

「お前がそこまでやらなきゃならねェと思ったんだ。並大抵のことじゃないんだろう」

 エースの黒い瞳に見つめられ、オルランドはもうそれ以上、言葉を紡ごうとはしなかった。否、できなかった。オルランドはいまや髪の毛一本分にも満たない危うさで、耐えがたきを耐えていた。歯を食いしばり、唇に力を入れて。
 彼を決壊させないように押さえているのは、もはや男の意地だけだった。

 マルコがゆっくりと語りかけた。

「全部話せよい、オルランド。他ならぬお前が望むことなら、俺らは最後まで付き合ってやる。それがオヤジの願いだ」

 その途端、彼はその場に崩れ落ち、袖を目元に擦り付けた。

「……かたじけねェ」

 声を詰まらせての、男泣きだった。その様子を見て、マルコはふうと息をついた。

「やれやれ。言いたいことは山ほどあるが……まずは生きてて良かったよい」

◇◇◇

「知っての通り、俺は口が上手くねェ。聞き苦しいところもあるかもしれねェが」

 そう前置きして、オルランドはぽつりぽつりと今回の事件について語り始めた。

 発端は半年前に起こった小競り合いだった。
 カイドウ傘下、末端の海賊団が、縄張りシマのひとつにちょっかいを出してきた。縄張り全域に“耳”のある白ひげである。その小さな出来事が耳に届くまで一日もかからなかった。
 事態の収拾のためクルーの派遣を決めた白ひげだったが、大事になることを嫌い、少人数での編成を望んだ。

「言っておくが、カイドウ相手にビビるわけはねェ。ただ事が大きくなれば、それだけカタギにも被害が出る。オヤジはそれを嫌っただけだ」

 白ひげの決定について、オルランドはそう付け足した。

 敵の数は極少数、隊長が出る必要はまるでなかった。経験・実力を考慮した結果、オルランドが単身出向くことになった。

 居並ぶ十二人の隊長とは格が違うとは言え、オルランドとて白ひげ直下の戦闘員である。件の島に辿り着いた彼は、その日のうちに敵を蹴散らし、難なく縄張りから放逐したという。
 大打撃を受けた敵は立て直す余力もなく、そのまま四散。大元のカイドウも、名も知らぬ末端の海賊が勝手にやったこと、白ひげと事を構えるつもりはさらさらなかったらしく、事態はあっさりと終結した。

 だが、トラブルは帰航中に発生した。

「マラクーラの南西で“太古よりの軛メエルシュトレエム”に、遭った」
「やっぱりそうか」

 私以外の二人は、その名を聞くと顔を曇らせた。

「“太古よりの軛メエルシュトレエム”?」
「“偉大なる航路”に発生する渦潮のことだよい。どこに現れるか分からねェ上、大きさが並みのものとは数倍違う。巻き込まれりゃァ普通の船はまず助からない。“偉大なる航路” でも指折りの船乗り殺しだ」

 マルコの説明に、オルランドは暗い顔で頷いた。

 マルコや幹部には及ばないものの、すでに新入りを脱し中堅層に入りつつあったオルランドである。いくら“太古よりの軛メエルシュトレエム”が相手でも簡単にはやられない。が、肝心の船がそうもいかなかった。短期航海用の頼りない小船は、怒り狂う“偉大なる航路”の前に、文字通り海の藻屑と化したのである。
 投げ出されたオルランドは渦巻く波の中、流されてきた大岩の下敷きになった。

 そこからの先の記憶はない。
 何時間か、何日か、打ち寄せる波音に意識を取り戻した彼は、目の前に黒々と口を開ける大きな森を見たのだった。

「死ぬわけにはいかねェ、と考えるのはそればっかりで」

 見知らぬ島に漂着したオルランドは、水の音を頼りに森の中を歩いていった。
 ふらつきながら森の奥に進んでいくと、しばらくして水を湛えた泉に辿り着いた。喉が灼けつくように渇いていたオルランドは、しゃがみこんでその美しい水をガブガブと飲んだ。

 そして、次に顔を上げた時、目の前に女がいた。

「はじめは、人形か像かと。でもよく見ると違った。頬に……」

 その時のことを思い出したのだろうか、オルランドの視線が遠く彷徨い出す。
 マルコが咳払いをした。

「その女が、この島の領主の娘だったってわけか」
「ああ。彼女は傷の手当をし、俺に食べ物と服を与えてくれァした。傷が治るまで何度も通ってきて」

 領主の娘アイリーンは微笑みを絶やさなかったが、その表情にはどこか悲しげな影があった。傷の多くが癒えた頃、オルランドはとうとう事情をたずねることにしたという。
 はじめアイリーンは首を横に振るばかりだったが、何度も訊くうちにとうとう話を打ち明けた。

「ドナン・ドゥイック家は、この島を本拠とし、かつてはこの一帯を領土とした大貴族だったらしいンです。はるか昔に没落して、いまやこの島に古い屋敷をいくつか残すだけだとも。アイリーンは現当主の娘だが、身体が弱く、生まれた時からこの島から出たことがなかった、とそう言っておりやした。だが、彼女には一人の聡明な兄がいたんです。ドナン・ドゥイックの力はとうになく、外の人々は皆彼らを忘れ去ってしまっていたが、二人は支え合いドナン・ドゥイック家の再興に努めようとしていた……そうで」
「“していた”?」

 エースの問いに、オルランドは頷いた。

「ああ、彼女の兄は――
「先の年、病にかかり帰らぬ人となってしまいました」

 鈴の音とも聞き紛う美しい声だった。屋敷の天井近くに取り付けられた、通風口のような小さな鉄格子。声はそこから漏れていた。
 オルランドがはっと振り返った。

「アイリーン!」
「大丈夫です、オルランド。ここから先は私がお話しましょう」

 悲嘆に塗り染められた物悲しい声だったが、口調はしっかりとしていた。

「顔も見せぬ無礼をお許しくださいませ。わたくしは今、ここから出ることができないのです」

 この小屋敷は塔のすぐ隣に立てられている。塔と接する側の壁が、アイリーンのいる塔の内部と通じていても何ら不思議はなかった。

「兄は、閉鎖的なドナン・ドゥイックの男性には珍しく外交的で進歩的な人物でした。ただいまのドナン・ドゥイックの在り方に疑問を呈し、常に新たな方向性を模索していました。ですから一族の未来を担う兄を喪った我々の嘆きは、言葉にすらできません。父はショックのあまり、何十歳も老けたようになってしまいました。そんな我々の元にやってきたのが、あの男―― ダンヴェガンです」

 名前が出た途端、オルランドの目がぎらりと怒りに燃えた。

「ダンヴェガンはこの島とは別の島に住むドナン・ドゥイックの遠い分家筋の者です。とはいえ、彼の先祖がこの島から出て行ったのはかなり昔のことで、もうずいぶん長い間交流は途絶えていました。ドナン・ドゥイックと同様にダンヴェガンの生家も没落して長く、外部に目を向ける余裕などなかったのでしょう。しかし、訃報の兄に病床の父。どこで知ったのか、ドナン・ドゥイックに残されているのがもはや病弱な私ひとりだということを聞きつけたダンヴェガンは、長年の両家の沈黙を破って、この島にやってきたのです。その目的は、ドナン・ドゥイック家の相続、正確にはドナン・ドゥイック家の莫大な遺産を手に入れることでした」
「ドナン・ドゥイックの遺産、ですか」
「ええ、そうです。ダンヴェガンはまず私を手に入れようとしました。私と結婚することでドナン・ドゥイックの正統な継承者となろうとしたのです―― もちろん、私は最後まで拒み続けました」

 粛々と話を続けていたアイリーンの声に、滲むものがあった。
 貴族の娘として淑々と育てられたが故に、溢れ出る感情をどう表現していいかわからない。私であれば、壁に拳を叩きつけて、地団駄を踏むだろうそれを、ただじっと腹の中で燃やし続けている。そんな感じに聞こえた。

「ある朝目を覚ますと、私はここに閉じ込められていました。ですから、ここからはメイドたちに聞いた話になります。ダンヴェガンはいつまで経っても思い通りにならない私に痺れを切らしたのでしょう。今度は彼の一族の若者を手下に使い、私に似た女性たちを攫うようになりました。私と同じ格好をさせ、私の口調を真似させて、老いた父の目耳を騙すため、 父からドナン・ドゥイックの遺産の在処を聞き出すために。遺産がどこにあるのかは、当主である父しか知らないのです。オルランドがここにやってきたのは、ちょうどそんな時でした」

 細々と苦しげだった声が、ふっとほんのわずかに柔らかくなった。マルコが鉄格子に向かって問いかける。

「それがどうしてこういうことになったんだ」
「オルランドは私の第二の兄を名乗って、ダンヴェガンからドナン・ドゥイックを守る役目を買って出てくれたのです。ダンヴェガンとて私たち本家の情報をすべて把握していたわけではありませんでしたから、不審に思われながらもなんとか隠し通せてきました。オルランドは私を守り、家を守り、攫われた女たちを守り、私の願いを叶えようとしてくれました」

 アイリーンはすすり泣きはじめた。

「ごめんなさい、私は彼の優しさにつけこんでしまったのです」
「違う、アイリーン。俺はただ……」

 それっきり二人は何も話さなくなった。

 メイドの一人が鉄格子の前に立っていき、慰めるように声をかけた。二言三言、言葉を交わして戻ってきたメイドは、今日はじめて私たちに向けて言葉を発した。

「お嬢様は少しお疲れのご様子。今晩はこちらにお泊まりになれるよう手配いたします。皆様もお休みになってくださいませ」


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