ふたつの棺を見ながら、老いた祖母は言った。
「世の中には悪い人間がたくさんいる」
人の命をたやすく踏みにじり、それでもなお裁かれず、のうのうと生きている人間が。
彼女の声には色彩も起伏もなく、幼心にそれがひどくおそろしかった。壊れかけた空っぽの箱。目を離すとどこかに行ってしまいそうな気がして、すがるようにその服の裾を握りしめた。
「イチル」
雨だれのようにぽつりぽつりと言葉がつむがれる。
「でもねえ、それでもね」
祖母はしゃがみこみ私の両肩を強くつかんだ。影に塗りつぶされたように、その表情はよく見えなかった。いや、ただ忘れてしまっているだけかもしれない。
祖母の形をした人影は、絞りだすようにつづけた。まるで自分に言いきかせているみたいに。
「それでもねえ、あんただけは―― 」
あとはもう何も思い出せない。
69 人と獣をわかつもの
「いやあ、平和だなあ」
甲板の手すりにもたれかかって、一面に広がる青を味わう。空には雲ひとつなく、海には荒波ひとつない。
「そしてまた、ひとつの船影もなし。ああ」
カラッと晴れた空の下、隣の手すりに無造作にひっかけられた洗濯物、ではなく洗濯物のようにだらりと手すりに『く』の字に垂れさがったシャンクスは、直下の海面に向けて世も末とばかりに哀切きわまりない叫び声をあげた。
「ああ、だめだ、ヒマだ。ヒマすぎる!」
シャンクスは手すりにつっぷしてしきりに嘆いた。この穏やかな海域に入ってから、ずっとこんな感じである。
「まあ、ヒマっちゃヒマだけども」
「そんな、なまやさしいもんじゃねェ。これ以上の平和は命にかかわる」
「四皇がんばって」
「無理ですう。がんばれません」
手すりに頬を押しつけて、しくしくと訴えるシャンクス。赤い頭をなでてやると、もっとなでてとばかりに擦りよってきた。
「海賊の航海といえば、もっとハードなイメージだったんだけど」
海賊といえば、バトル&バトル。敵船を見つけてはアタック&アタック。出典はパイレーツオブなんとかリビアンである。
が、しかし幸か不幸か、この予想は見事に裏切られつづけていた。 私がこの船にきてから、そういった“ザ・海賊”的な事件はまだ一度も起こっていないのだ。平和も平和、おそろしいほど平和な日々である。
「語彙が貧困で申し訳ないけど、もっとこう『野郎ども、戦闘だ!バーン、ドカーン!』って感じだよね。海賊というと」
「やろうども、ばーん、どかーん」
シャンクスはボウフラのような呆けた顔で復唱した。世間様に鬼よ悪魔よとおそれられる大海賊もこうなってはただのかわいそうなおじさんである。
「もしくは『宝島が見えたぞ、野郎ども上陸しろ!ウオオオ!』みたいな。ちがう?」
「たからじまが見えたぞう。やろうども上陸ゥ」
「ねえしっかりして、赤髪のおじさん」
「持病だ。そっとしておいてやってくれ」
ゆさゆさと隣の肩を揺すっていると思いがけぬ第三者の声。顔を上げると、視界の端に紫煙がくゆった。
「ベックマンさん。こんな時間にめずらしいですね」
「俺は吸血鬼か何かか」
昼間は自室にこもって仕事三昧のベックマンは、さんさんと降りそそぐ陽光の下、肩をすくめた。私は閑古鳥の鳴く海を指さしながら、今現在レッド・フォース号がおかれている平穏についてたずねてみた。
「これって普通なんですか?海賊っていつも敵と戦っているイメージなんですけど」
「間違っちゃいないさ。昔は何かあるごとにドンパチやってたんだ。ただ、うちの大将が“四皇”なんていう大層な名前で呼ばれるようになって以来、な」
一般の海賊からすれば、四皇とことをかまえるなんてとんでもない、ということだろうか。海賊といえども、勝てない相手に喧嘩を売るような無謀は美徳にカウントしないらしい。
例のごとく私の考えていることを読みとったらしいベックマンがつづけた。
「人のいるところには自然と暗黙の了解ができる。善悪問わずな。秩序に反発する奴らほど、気づかないうちにみずから別の秩序に引きよせられていくもんだ。過去どんな例をとってみても、それが弱者の味方だったことなんてないのにな」
ベックマンはふうと煙を吐きだした。その口元にうっすらと皮肉げな笑みを浮かべながら。
一方、手すりに干された洗濯物の役にも飽きたらしいシャンクスが、起きあがりながらぶうぶう言った。
「ほんとにつまんねェよ。こう、ビビッとくるような何かが起こってくんないかねェ。たとえば―― 」
「敵船発見!敵襲、敵襲ゥー!」
「ほら、こういう感じの」
ばっと手すりから飛びおきたシャンクス。私たちは顔を見あわせた。
「敵襲?」
はじめての敵襲―― と書くとなんだかちょっとかわいくも思えてしまうそれは、実際には私の想像していたものとはまったく異なっていた。
レッド・フォース号の横につけたのは小船も小船、しかも真ん中にイスがひとつ据えられているだけのいわば筏船である。甲板や舵輪すら見あたらない。
故郷の港町ではもちろん、こちらに来てからも目にしたことのない異様な風体の船から、音もなく降りたったのは、ひとりの男だった。
「よう、“鷹の目”」
黒いノーブルハット、臙脂色のマント、そしてもっとも目をひくのは肩幅よりもはるかに広いつばをもつ、巨大な剣。
中世の銃士風の装束を身にまとった男は、肌がひりつくような威圧感を放ちながらも、高潔さを感じさせる声で言った。
「久しいな、“赤髪”」
一方のシャンクスは海賊たちの中心で高座に行儀悪く腰を下ろし、ニヤニヤと口の端を上げていた。
「何年ぶりだ?ちょっと老けたんじゃないのか」
「時を数えるのは好かん」
「相変わらずツレねェ奴だな」
「貴様の機嫌を取って何になる」
「ヘェ、てっきり俺に会いたくなって来たのかと」
「帰る」
絶対零度の冷徹さで背を向けかけた男を、シャンクスは「まあ、待て待て」と鷹揚に引きとめた。
「良い酒がある。お前のために買っておいた。飲んで帰れよ」
“鷹の目”と呼ばれた男は何を思ったか、この時ピクリと眉を動かした。少なくとも私にはそれだけしか見えなかった。
次の瞬間、大きな水音がして、海面から巨大な何かが飛びだしてきた。「海王類だ!」とクルーたちの声が聞こえる。
竜のような魚のようなその生き物は大きく身をひるがえし、牙を剥きだし、今にも船に噛みつかんと―― していたはずだった。
突如、するりと海王類の鼻先がふたつにわかれた。
急な出来事に目を閉じることさえできずにいた私は、巨大なそれが空中で音もなくまっぷたつに分断されていく過程を一部始終、目の当たりにすることになった。
開きになった巨体がそれぞれ 船の左右で海面を叩く音が聞こえたころ、私は頬に飛び散った水沫の感触でようやく我にかえった。
「相変わらずの腕だなァ」
シャンクスが上機嫌で口笛を吹く。この船でおそらく唯一何が起こったのか理解できていなかった私は、ぽかんと口を開いたまま、目の前のこの“鷹の目”という男が何かしたらしい、ということだけをとりあえずのみこんだ。
“鷹の目”は、今度こそ眉ひとつ目玉ひとつ動かさないまま言った。
「下らん。が、暇をつぶすには程か」
「小娘」
注意していなければ聴きのがしてしまいそうな低い声で、男は言った。
「おい、小娘」
「は、はい!何でせう」
緊張のあまり台詞が文語調になった。やうやう白くなりゆくやまぎは。
ところが一方、男は私の失態など端から気づいてさえいないような様子で冷静に返した。
「酒が切れた」
こちらを見もせずに空になった杯を差しだしてくる。
『人にものを頼む時は相手の目を見て!ちゃんと、両手で!これ社会人の基本!』
などと言えるはずもなく、私は大人しくブランデーの酒瓶を持ちあげた。ほら、一見髭ダンディなおじさんとはいえ、もしかしたら社会人じゃないかもしれないし。
ぶつぶつと心の中でつぶやきながら、それは強烈な匂いのする中身を注ぐ。
男は男で、とくに愛想がいいわけでもないホステス役に文句をつけることもなく、注がれたブランデーを淡々と消費していった。足を組み、顎をあげた不遜なふるまいだが、はしばしに品がある。
「小娘」
私はすでに右手に用意してあった酒瓶をスチャ、とかまえた。いつでもこい。
が、男はそんな私を異なものを見るかのように一瞥し、抑揚のほとんど感じられない声で言った。
「立つか座るかどちらかにしろ。目障りだ」
おなじみ、『どうしてこんなことになった』シリーズ第云弾。私はいつものポーズで頭をかかえた。どうしてこんなことになった。
もとはといえば全部シャンクスのせいだ、と今回は言いきってしまっていい。
この“鷹の目”という男を招いて船長室で飲みはじめたのはいいが、酔いがまわってきたころになって、例の「イチル、来いよ」である。
自室で静かに読書をしていた私は、飲めない小娘を呼びだしていったい何をさせるつもりなのかとげっそりしつつ、ひとまずは従順に指示にしたがった。
案の定、船長室のドアを開けると、すでにできあがったシャンクスが、何がおもしろいのか大笑いしていた。ひとりで。例の客人はにこりともしていない。
シュールな光景にドン引きしたのもつかの間、気づけば引きずりこまれてこのザマである。シャンクスのあのごつい腕につかまれたら最後、絶対に逃げられない。
片方しかないにもかかわらず、梁にぶら下がって涼しい顔で一日中懸垂していられるような腕だ。両腕とも無事だったら「一日中懸垂しつづける」という文章に「酒を飲みながら」というフレーズを追加することさえできるだろう。
酒瓶をかかえて両名の間で待機、なくなりそうになったらそそぐ。大学生活、社会人生活を通してすでに修得済みの技術なので、それ自体はたいして苦痛ではないのだが、日本での経験上こういう場ではすくなからず飲まされるもの。
だが、ありがたいことにシャンクスはそういったことをいっさい強要しなかった。 それどころか私がすこしでもボトルの口をのぞきこもうものなら、ぎょっとしたような顔をするのだ。
クルーたちに対しては容赦なくアルハラくさいことをしかけていくくせに、まったく摩訶不思議である。おもえばシャンクスにかぎらずクルーたちもまったくといっていいほど酒をすすめてこない。
なにはともあれ、「飲み会 断り方 上司 海賊」で検索をかけずに済んだことには素直に感謝だ。
とまあ、そんな感じでしばらく経ったあと、シャンクスが空になった酒瓶を振りながら言った。
「酒が足りねえな。取ってくらあ」
「そ、それなら私が」
「俺はあ、目の届かねェところで、ヒック、お前に酒瓶を、持たせるつもりは金輪際、ヒック、ない。いいか、絶対にだ」
こ、この人とふたりきり? と目で訴えてみたものの、極楽気分の耳には届かなかったらしく、彼は「酒だあ、酒を持ってこい」と言いながらふわっふわっとおぼつかない足どりで部屋を出ていってしまった。
それから、かれこれ一時間。
シャンクスの友人ということ以外はプロフィール一切不明の男性と会話がはずむはずもなく、かと言っていまさら自己紹介をはじめるだけの勇気もなく、気まずい雰囲気のまま現在に至っている。
この男爵殿が笑顔で“Hi”だの“Nice to meet you, too.”だのと返してくれる可能性は、私が海賊王になって四つの海を制覇する可能性よりもさらに低いと思われる。出会ってたった一時間、それも黙ってコンパニオンまがいのことをさせられていただけだが、それくらいはすでに承知の助である。
諸悪の根源もとい、頼みの綱のシャンクスもどこでのたれ死んだのか、一向に戻ってくる気配はない。『目の届かないところで私に酒瓶を持たせる気はない』んじゃなかったのか。
心の中でため息をつきつつ、私は男の周辺に視線をやった。目を合わせないように視線を横にずらしていくと、自然とアレに行きあたる。
すぐそばに立てかけられた、剣。
偽物には見えなかった。
「小娘」
「い、いや、何も」
後ろにさがった拍子に、机に足を引っかけてしまった。机の揺れによって、立てかけられていた剣の鍔元がわずかに鳴った。びくり、と首をすくめてしまったのは、もはや生理現象のようなものだった。
だが、“鷹の目”の鋭さはそれを見のがさなかった。
「おそろしいか」
私は正直に頷いた。
「はい」
「ならば、なぜここにいる。力なき者には過ぎた海に」
責めるというよりも、純粋に疑問に思っているような口調だった。視線は相変わらず前を向いたままで、私を視界を入れようともしない。
「あなたのような人には、わからないかもしれません」
嫌味ではなかった。男と同じく、純粋にそう思っただけ。
だが、何を思ったか、またたきさえしなかった男がわずかにその瞳を動かした。
部屋の中でも帽子はかぶったまま、大きなツバの陰に控えた猛禽の苛烈さと無機質さが、このときはじめてこちらに向けられた。
「何を願う」
「ひと言で説明するのは難しいですが。私が私でいるために、必要なことです」
「その取るに足りぬ命で贖えると?」
「取るに足りないからこそ、全部を賭けるしかないんです」
“鷹の目”はしばらくこちらを見ていたが、じきに興味を失ったように視線を前に戻した。
「フン、つまらん答えだ」
そうだ、とるにたりない者の、とるにたりない願いだ。でも私が私であるために、あきらめてはいけない願い。足りない者はいつだって、もてる精一杯を捧げるしかない。
杯が空になっているのに気づきボトルを取りあげたが、それをかたむける前に男がふたたび口を開いた。
「だが、身の程をわきまえている」
男の表情には寸分の変化も見られず、やはり彫像のように冷たく凍ったままだったし、内容も褒められているのか貶されているのかよく分からないものだったが、それが否定でないということはなんとなく感じとれた。
男はちらりとこちらを見て、顎で酒瓶を示した。
「あっ、すみません。今つぎます」
じろり、と目が動き、テーブルに置かれた誰も使っていないグラスを指した。
「ちがう。飲め」
そっちかー! と私は天井をあおいだ。忘れたころにやってくる。アルコールハラスメンッ。ウィ!
目は口ほどに物を言う。わざわざ口に出すようなお人ではないため、私による私のための私の解釈でおとどけすると、彼はこう言っている。
『俺の酒が飲めんのか』
「そ、そうですね。あはは、じゃあほんのすこしだけ」
「そこまでだ!」
おそるおそる口元に近づけていたグラスが、手の中から消えた。背後に立っていたのはもちろんシャンクスである。
「あっぶねェ。赤髪危機一髪」
しばらく休んで回復したのか、もうすっかりいつもどおりの声である。
「油断も隙もねェな。うちのモンにちょっかい出すなよ」
「何をどうすればそう見える」
「テメエが堅物に見えて、やることはちゃっかりやる奴ってことぐらい知ってんだよ。こいつはこう見えてもれっきとした女なんだ。まァ、酒さえ飲まなきゃって条件付きだが」
「そんな条件なぞあろうがなかろうが同じだろう」
「露骨に失礼」
無礼ワードが頭上を乱舞する。やめろ、いくらナチュラルボーンな女キラーズとはいえ、言っていいことと悪いことがある。
「そもそもだな、テメエの『俺は孤高。女なぞ我が道を妨げるに及ばず』みてェなソレ、年齢的にそろそろアウトだって気づけよ。対象年齢は十代半ばくらいだからな。そのうち『我が右目が疼く』とか言い出すんじゃねェかと思ってヒヤヒヤしてんの、良識ある海のおっさんとしては! こういう時はだな、胸がなかろうが尻がなかろうが色気がなかろうが『後で部屋に来い』ぐらいのことは言っとくのが紳士ってもんだ」
「見境なしの貴様と一緒にするな。俺にも選ぶ権利はある」
前半はヒヤヒヤ、後半はこめかみがビキビキする討論をどうもありがとう。青筋がとどまるところを知らない。尊厳を守るため、私はどんとテーブルに身を乗りだした。
「セクシャルハラスメンッッッ!シャンクス、ミホースさん!おふたりともさすがにひどくないですか!」
ぴたり、とふたりの動きが止まった。猛禽のような二対の視線が集まる。
しまった。
「あ、あの」
「もう一回言ってみろ、イチル」
「生意気言ってすみませ―― 」
「いいから」
下を向いていて、シャンクスの表情は見えない。
「『さすがにひどくないですか』と」
「ちがう、その前だ」
「セクシャルハラスメン?」
掛詞は海賊的にアウトだったのだろうか。
「そこでもなく。その次だ」
「シャンクスも、ミ、ミホースさんも?」
ばん、とシャンクスがテーブルにつっ伏した。
「く、くく」
そして、割れるような大爆笑。あははは、というようなかわいいものではない。雷様が大暴れしているような感じである。
「“ホース”ってなんだよ、“ホース”って! 馬か? お前、鷹じゃなくて馬だったのか?」」
「か、かっこいい動物の名前が入っているって覚えてて……! それにブーツとかがちょっと牛飼童―― じゃなくてカウボーイぽいからそれでうっかり」
動揺のあまり、言語が古代にさかのぼりはじめた。うしかひわらは。
完全に酔いが醒めていたわけではなかったらしいシャンクスは、さっきから無言を貫いている客の背中をためらいなくバンバンたたいた。
「よ、“馬の目”」
「斬るぞ」
「蹴るぞ、の間違いだろ?」
「……そこに直れ」
「あああ、ベックマンさん! ヤソップさん! エマージェンシー、エマージェンシー!」
その後、間に入った幹部の取りなしで、なんとか大戦争には至らずに済んだシャンクスおよびミホースあらためミホーク両名。もちろん名前を間違えた張本人の私は這いつくばって床を舐めるくらいのいきおいで、ようくあやまっておいた。許してくれたかどうかは不明である。
太陽が水平線に沈むすこし前、ミホークは黙って甲板に出た。係留された己の船に近づいた彼は、そこに足をかける前、振り向かずに言った。
「小娘」
「はっ、はい!」
しでかした失態の手前、私は背筋を正し、専属の執事のような迅速さで彼の元に駆け寄った。 なさけないが、彼の前では最後までどもりっぱなしである。
はじめてまともに向き合った長身が、私を上から下まで睥睨した。再度の土下座も辞さない覚悟でその場につっ立っていたが、すぐに彼の目がとある一点を見ていることに気づいた。
目は口以上に物を言う。この人の場合はとくに。意図がよめないまま、私はおそるおそるその一点―― つまり、自分の右手を彼の前に差しだした。
ぽとり、と何かが手のひらに落ちた。慌てて両手で包みこむ。
「くれてやる。その玩具なら貴様の弱き手にもおさまろう」
それは小さな鞘に収まった小さなナイフだった。彼が玩具と表現したそれは、それでも私の手の上では大きく武骨に見えた。
「この海を丸腰で渡りあるこうとは。傲慢に過ぎる」
礼の言葉も最後まで聞かず、彼はそれだけ言うと船に乗りこんでしまった。シャンクスと別れの挨拶もなく、そのまま水平線に消えていく。
私はもらった物を握りしめて、その後ろ姿を眺めていた。
「さて、行っちまったな」
どこにいたのか、見習い三人がぴょんと顔を出した。
「“鷹の目”が突然訪ねてくるとはな。さすが“四皇”の船」
「普通じゃありえないな、まったく。伝説の住人は伝説の住人を呼びよせるのか。フォウ!」
「これが世界」
三人が感嘆しきりで話しあう。私は、今しかない、と口を開いた。
「たいへん、たいへん心苦しいんけど、やっぱり言わせてもらうね」
怪訝そうにしていた三人だったが、じきに私が何を言わんとしているか思いあたったらしく、露骨に嫌な顔をした。
「イチル、テメエまさか」
「あの人はどなただったのでしょう、か。なんちゃって」
三人が三人とも顔を押さえて、夕焼けの空をあおいだ。
夜になって、シャンクスからお呼びがかかった。
「やっぱり昼間のことかな。いや、でも本人も結構煽ってたしな」
ノックすると、いつもどおりの声が聞こえてすこしほっとした。ドアを開くとシャンクスはだらりとソファに腰かけていた。普段と何ら変わらない光景である。
向かいに座ると、彼は私の胸元を指さして言った。
「見せてみろ」
いやらしい意味では、ない。当たり前だが。
彼にはすべてお見通しのようだった。私は昼間もらった鞘付きのナイフを首にかけたチェーンごと引っぱりだし、その手に乗せた。
彼は黙ってそれを取りあげ、あちらこちらを眺めすかしていたが、やがて慣れた手つきで鞘を引きぬいた。
そして、迷いなく自分の鎖骨のあたりに刃をすべらせた。一瞬後、赤い筋が浮きでて、じわじわと血がにじんでくる。
「シャンクス! 何して―― 」
「アイツが選んだだけあるな。いい品だ」
シャンクスはほんのすこし血のついたナイフを私の前に差しだし、言った。
「これは本物だ。わかるか、イチル」
この時、私には彼が何を言わんとしているのかわからなかった。ただその血に怯えながら、一度だけ頷いた。シャンクスはその様をじっと見ていたが、じきにナイフを引っこめ、器用に片手でその血をぬぐった。その様子を眺めながら、私はつぶやいた。
「もたないほうが、いいと思う?」
彼はすこし逡巡したあと、指についた血を舐めとりながら答えた。
「どちらを選ぶかは、いつだってお前次第だ」
そうしてシャンクスは私の手に小さな小さな刃物を戻した。
部屋に戻り、私ははじめて自分で鞘からナイフを引きだした。くもりひとつなく、宝石のように蠱惑的なそれ。
―― 剣は人と獣をわかつ物。小さき者、せいぜい足掻くがいい。
彼が私にしか聞こえない声で言ったその言葉を反芻しながら、私はいつまでもその小さなナイフを眺めていた。