パァン、と空気が割れるような音とともに、火薬の匂いが鼻奥を刺した。
「伏せろ!」
男が叫ぶや否や、弾丸があたりに降りそそいだ。
庇うように覆いかぶさってきた男が、切羽詰まったような表情でこちらを覗きこんでくる。
「大丈夫か!?」
「風見さんこそ!」
「俺は問題ない。それより、もうすぐ『彼』との合流時間だ。準備はいいか?」
ポケットを覗きこめば、きらりと光る銀色がある。
犯人を捕まえるための道具。二つの輪っかが連なったそれは、以前の彼女には使うことが許されなかったものだ。
「準備は万全です!」
「よし、現行犯でいくぞ」
汗まみれの顔を見合わせたあと、ふたりは目の前のドアを蹴りやぶった。
「動くな、警察だ!」
File.1 回廊にて
―― というのはイメージです。あらかじめご了承ください。
乱れ咲いていた想像の上に、のんきなテロップが流れた。妄想を打ち止めたトウコは、ふう、と肩をすくめた。
白い廊下に靴音が響く。
静穏なリノリウムを行きながら、トウコはガラスに映る自分の姿を見かえした。
粛々と身体を包む黒いスーツ。足元では同じく真っ黒なパンプスが、真新しい革の色をさらしてなめらかに光っている。
まさか堂々と『ここ』を歩ける日がくるとは思わなかった。
それこそ、夢にも。
「ぐずぐずするな、佐神巡査部長」
足の運びが鈍るや否や、数歩先から鋭い叱責が飛んでくる。
そびえたつような痩身の男―― トウコの新しい上司・風見は、トロくさい新人を見下ろして、苦々しくメガネのフレームを押しあげた。
「さっさと歩け。日が暮れる」
「は、はい!」
慌てた返事が廊下にうわんと響いて、通りがかりの職員がこれみよがしに咳払いをした。
見るからに『今日付で配属されました何某です!ご指導ご鞭撻のほど何卒宜しくお願い申し上げます!』という感じだ。この季節には珍しくもない光景だろうが、何卒宜しくお願い申し上げている当人はちょっと恥ずかしい。
犯人を追いつめ、「動くな、警察だ!」なんてのはまだまだ先のことだろう。いや、それどころか一生そんな機会はないかもしれない。
今日も明日も下積み下積み。地味で、きつくて、汗くさい。
でも、だからこそ―― 。
「あっ、ちょっ、待ってください!」
我慢強い教育係兼上司だったが、この期に及んで反省しないトウコにとうとう愛想を尽かしたらしく、勝手にしろとばかりにさっさと曲がり角の向こうへ消えてしまった。
初日から迷子にだけはなりたくない、とトウコは慌ててダークグリーンの背中を追いかけた。
長い長い、警視庁の廊下。
その一番端っこから、トウコはようやく歩きだした。
なった。
ついに、なってしまった。
憧れの―― 警察官に。
奇跡のようなあの日から一年と数ヶ月、正式に警視庁本庁の人員として配属された今になっても、トウコは目の前の現実が信じられなかった。怪しいクスリで長い幻覚でも見させられてるんじゃあるまいな、と暇があったら頬をつねる日々である。
幸せいっぱいのトウコではあるが、ここに至るまで彼女自身にもそれなりの試練があったということは是非知っておいてもらいたい。
まず第一に、トウコが『佐神トウコ』としてそのまま復職することはできなかった。
というのも、身寄りがなかった『佐神トウコ』は、海外で行方不明になった際そのことを職場に伝える者がおらず、外形的には『無断欠勤の後に失踪』―― ようするに、とっくの昔に免職なっているのである。
とはいえ、例のお方がその気になってゴニョゴニョすれば、カラスだって白鳥になる。てっきり、『実は辞めていませんでした』という体で復職することになるのだと思っていた。
ところが。
『今日中に提出。面接は明日』
時を遡ること、一年と少し前。
例の幽霊事件の退院後、たるんだ身体を元に戻すため、せっせとランニングに励んでいたトウコの前に現れた彼は、そんな言葉とともにトウコの腕に山盛りの紙束を押しつけた。
どさりと重いそれは―― 警視庁・再採用枠の応募書類。
『ま、まさか、これは。日本において社会人になるには避けては通れないという、あの……!?』
『自分は免除されるだろうって?』
『い、いや、そういうわけでは』
後退るトウコを追いつめ、彼はあざ笑うように宣告した。
『就活だ』
「ここが資料室のあるフロアだ」
前を歩いていた男が足を止めた。
はっと余計な思考をかき消したトウコは、脳内にて絶賛製作中の館内地図を引っぱりだし、空白部分にガシガシと新フロアを描き加えた。
「資料室……」
「いちいち説明しなくても何をするところかはわかるな。利用方法は必要になった時点で教える」
彼はフロア全体を眺めながら淡々と説明した。
丁寧ではないものの、必要十分な内容は教えてくれる。今日付で部下になったトウコへのいわばオリエンテーションである。
一年前と数ヶ月前、突然の就活命令により、天下の警視庁に真正面から特攻をかます羽目になったトウコは、カクカクシカジカ―― 本当に必死にカクカクシカジカしたすえ、なんとか無事に採用された。
『明應大卒の三十一歳、キャリアウーマン系元刑事(ブランク有)』になりきっての就活は、考えていた以上にきつかった。
こちとら、アラサーどころかピチピチの大学生である。元刑事どころか元犯罪者である。
「なにか気になることでも?」
「い、いいえ」
遠い目になっていたトウコに、前の男が振りかえる。
風見裕也。警視庁公安部の警部補にして、トウコの新しい上司だ。
風見は目だけを動かして、睨むようにトウコをじっと見下ろした。
「……佐神」
「は、はい!」
「なぜメモを取らない」
冷ややかな声にぎょっとする。しかし、トウコは一瞬考えてから、
「持ち歩いていないからです」
と慎重な声で答えた。
「持ち歩いていないだと?」
風見の声がますます低くなる。ひそめられた眉にひやひやしながらも、トウコははっきり「はい」とうなずいた。
「……そうか」
しばらくして返ってきた声はけっして不機嫌なものではなかった。
「それでいい。情報は形に残すな。うちは他の部署とは違うからな」
真剣にうなずいたトウコを見て、彼はようやく表情をゆるめた。
といっても、眉間の皺が一本減った程度だったが。
「大慌てでメモを取り出した新人をこっぴどく躾けてやる―― 恒例行事だったんだがな」
わずかにおかしそうな顔をした風見だったが、廊下の向こうに人の気配を認めた途端、いつもの仏頂面に戻って、「次に行くぞ」と歩きだした。
「海外旅行中に事故に遭い、長らく意識不明だった、と聞いたが」
『設定』の再確認を求めて、風見が目だけでこちらを向いた。
長い廊下にはまばらに人がいる。
「はい。復職こそできませんでしたが、事情が事情なので再採用なら、と」
警視庁には辞職者を再採用する正式なルートがある。一定の要件を満たせば、元の階級などが考慮された状態で、再就職することができるのだ。
とはいえ、無断欠勤・失踪のすえに免職されたような人間が再採用されることなど通常は絶対にありえない。トウコの預かり知らないところで、何らかのブラックなパワーが作用したのは確実だ。
「そして事故の際に顔に大怪我を負い、大幅な整形手術を受けた、と。たしかに昔の顔とはすこしちがうな」
ちらりと顔を見られたので、トウコのほうでも嘆いているような仕草で肩をすくめた。
「前に比べるとすこし若返ったかもしれませんね。昔の知り合いとすれ違っても、誰も気づいてはくれないでしょう」
顔の違いをどうするか―― トウコが『佐神トウコ』になるにあたって一番の課題はそれだったわけだが、いろいろ考えたあげく、事故に遭って顔が変わった、という話にするのが一番マシだろうということになった。
警視庁は四万人以上が在籍する巨大組織だ。無数にいるペーペーの身の上など、どうとでもごまかせる。
「まあ、とっさに偽名を使うくらいの機転は期待したいところだが」
風見の視線がつむじを刺したが、トウコは平気のへいちゃらへのかっぱだった。
つい先日までいたあそこに比べれば、天国のような待遇だ。
「その様子だと、ずいぶんと苦労したようだな」
「ええ……まあ……」
トウコはげっそりと頬に手をやった。
就職したのは一年前。そしてここに配属されたのは今日。
その一年の空白期間に彼女が何をしていたかというと、もちろん熱心に勉強していたのである。
学校は学校でも―― 警察学校で。
ふたたび時を遡ること、一年とすこし前。
突然の就活命令にもめげず、なんとか選考を突破したトウコは、溜まった疲れを癒そうと久しぶりに散歩に出ていた。
いつもの公園。
満開の時期もすでに過ぎ、花見客の姿は見えない。
遅咲きの桜が一本だけ、道の際でひらひらと花びらを散らしていた。
『佐神トウコ』になりきって面接を受けるのは大変だった。
しかし、それさえ終わればあとは辞令を待つのみである。
『サクラサク、だなあ』
ほんのり香る春のにおい。すこし伸びた髪。
ワンピースの裾を春風にそよがせながら、トウコは遅咲きの桜に自分を重ねて―― 。
ザザザザ!!
けたたましいタイヤ音が、トウコの桃色おセンチを華麗に粉砕した。
車が一台、道路をかっとんで来る。
縁石に乗りあげそうな勢いでドリフトしてきた車は、トウコの身体を掠めるように急停車した。
案の定、どこぞの国産スポーツカーである。
髪から何から風圧でぐちゃぐちゃにされたトウコは、白いRX-7をにらみつけた。カツラをお召しの校長先生だったら訴訟問題だ。
助手席側のウインドウが開いていく。
顔をのぞかせた運転手はちょいちょいと指先でトウコを呼びつけた。
『なんですか?』
いつもの癖でノコノコ近づいた―― のが、運の尽きだった。
伸びてきた腕にまんまと手首を掴まれたトウコは、そのまま助手席の窓から車内に引きずりこまれた。
助手席で上下逆さまになっているトウコをそのままに、車が発進する。
悲鳴を上げながら姿勢を戻し、やっとのことでシートベルトを締める。
運転手は書類を投げよこしながら、こんなことを言った。
『今から君のマンションに行く。三十分以内に準備しろ。式は一時間後だからな』
式、という単語にトウコは目を剥いた。
『もしかして降谷さんにもとうとう春が!?お相手はどんな奇特な―― 』
丸めた書類で、面あり!一本!
抜刀斎も納得の一太刀に、トウコは頭を抱えて悶絶した。あいかわらず冗談が通じない人だ。
通じてたまるか、とばかりに彼は丸めていた書類を伸ばして、トウコの手に押しつけた。
『くだらない話をしている暇はない。詳しくはそれを熟読しろ』
どさりと重いそれは―― 警視庁・警察学校のパンフレット。
『ま、まさか、これは。日本において警察官になるには避けては通れないという、あの……!?』
『自分は免除されるだろうって?』
『い、いや、そういうわけでは』
距離を取るように助手席のウインドウに貼りついたトウコを横目で見て、彼はあざ笑うように宣告した。
『入校だ』
「佐神。どうした、大丈夫か?」
はっと我に返ったトウコは、ハニワのごとき虚ろな顔をいつもの状態に回復させた。
「すみません、今日は感慨深いことが多くて……」
「そ、そうか」
若干引きつつも、ちゃんと返事をしてくれる風見。こういうところはどこかの誰かさんよりも数万倍優しい。
「で、成績はどうだったんだ?」
咳払いで話題を変えた忖度の神・風見だったが、結論から言えば、藪をつついて蛇を出す結果になった。
成績、と聞いてピクリと眉を動かしたトウコは、深い深いため息を吐いたあと、底なし沼に沈んでいくような声で答えた。
「二位でした、ずっと」
「二位?」
風見がめずらしく驚いたような顔で覗きこんでくる。
「君のことだ、てっきり首席だったのかと」
「首席……」
トウコは喉の奥から悲痛な声を絞りだした。
「首席!ああ、そうであったらどれほど良かったか!」
ずっと二位。最初から最後まで二位。
そう、『どんなときも必ず二位』―― そういう指定だったのだ。
またまたまた、さかのぼること一年と数ヶ月前。
入校後、一番最初の休みの日の深夜、電話を通じて秘密裏に交わされた会話をご紹介する。
『順調か?教官や同期に怪しまれてはいないだろうな』
『も、もちろんです!誰よりも遅寝早起して毎日顔を作ってます』
顔を作る―― ようするに変装である。
制度上、再採用の『佐神トウコ』は新人の教育過程に入れない。しかしどうしてもトウコをいちから教育したかった彼は、とんでもない荒業を披露した。
『入校前に伝えたとおり、そこにいるあいだ、君の名前は“赤羽幸恵”だ。プロフィールは頭に入ってるな?これから卒業までの一年間、君は今年入った新人と一緒に、この職務の基礎を学ぶ』
とんでもない荒業―― なんと彼はトウコを学校に行かせるためだけに、架空の人物を用意したのだ。
学校といっても内部のことであるし、彼の力をもってすれば不可能ではない。
ただし、その荒業を実行する側の人間から言わせてもらうと―― 。
『キツい。変装しながらの密着集団生活って結構キツイんですよ……しかも一年間も。始まってまだ一週間ですけど、すでに寝不足が極まってます』
『成績は二番手につけろ。首席はさすがに目立ちすぎる』
安定のガン無視である。
『じゃあ、二位から三位くらいのイメージで頑張ってみますね』
『だから二位だと言ってるだろ。それ以外は許可しない』
さすがのトウコも、ここで悲鳴をあげた。
『冗談はやめてください!二位に固定するなんて、首席になるよりずっと難しいですよ!』
『一位になりそうな奴を徹底的に観察して、点数を予測しろ。努力家だがいつもぎりぎりでトップには立てない、そういうキャラクターを演じきれ』
『え、まさか本気で言ってます?えっ、ちょっ。無理!無理です!そんなの無茶ぶ―― 』
ぶち。つーつーつー。
以上。
無慈悲に切れた公衆電話の前で、トウコはしばらく放心した。
警察学校といえば、「きびしい」「くるしい」「こわい」の3K。
とはいえ、彼女はかつて、それよりもはるかに3K度の高い学校にいた人間である。
3Kどころか「きびしい」「くるしい」「こわい」「(下手打つと)ころされる」―― という非合法4Kの学び舎でサバイブしてきた時代を思えば、まあなんとかなる場所のはずだった。
が、結論から言うと―― 。
「もう二度とごめんこうむりたいです……」
ひと通りの案内を終えて出発地点に戻ってきたころには、もう夕方になっていた。
人気のない廊下の端で、風見がおもむろに口を開いた。
「すでに聞いているかもしれないが、君への仕事は原則、直属の上司である俺から下ろすことになる。報告と相談はすべて俺に。俺は君の教育係も兼ねている」
なぜトウコの直属の上司が『彼』でないのか―― 答えは簡単。身分が違いすぎるからだ。
警察庁、その中でも非常に機密性の高い部署の若きエース。入ったばかりの下っ端が、そんな重要人物と気軽に接触できるほど、この組織は薄くない。
むしろ、そんな彼に重用されている有能な人物が直接の教育係についてくれているだけでも、もったいない話なのだ。
「はい」
素直にうなずいたトウコに対し、何を思ったか、風見はこんなことを言いだした。
「ただし、だ。仕事に影響がないかぎり、俺は君の個人的な事情には立ち入らない」
「個人的な事情……?」
「君が仕事の後どこに行くか。休みの日に誰と会うか。私用の携帯で誰と話すか。そういったことには俺は関与しない。まあ、当然のことではあるが」
なんとなく読めてきたトウコは、おそるおそる人指し指を立てた。
「た、たとえばですが、休みの日に近所の喫茶店に行って、そこの店員さんとお話したり……?」
「好きにすればいい」
「親しくなった店員と個人的に電話をしたり、その趣味の手伝いをしたり……?」
「それも同じだ」
「じゃあ、逆に店員さんから何か『お願い』をされたら……?」
「それなら、いっそう何も言えないな。その店員が君に何を頼んだとしても、それは君たちの勝手だ」
それだけ言って、風見は素っ気ない仕草でトウコに背を向けた。
「もっとも、新人に休日なんてないがな。明日からの本番に備えて、今日はさっさと帰って寝ろ」
追い払うようにひらりと手が振られる。
「か、風見さん……!」
感極まったトウコだったが、ここがどこであるかを思い出して姿勢を改めた。
「はい!ありがとうございます!」
とひときわ大きく響きわたった返事の声に、通りがかった職員が小さく笑った。